2017年5月10日水曜日

Genius 2 Lesson 2 和訳

Part 1

小っちゃな頃から故郷・ニューヨークから出たくて出たくて、ついに19の時に海外へ行くチャンスをもらロンドンの学生としてユースホステルに他の留学生と共に暮らし、互いに料理したりしてもらったりしたものである。4ヶ月もすれば超辛いエスニック料理に挑むほどになったが、さらには実際にそこに行きたくてたまらなくなった。で、数ヶ月後に中国の旧正月を過ごそうかと友人に誘われたんだけど、それが長い旅の始まりだったんだ。香港は飛行機で数時間かけて行く価値は十分あった。新たな場所を見るのがあまりに楽しくて結局13ヶ月も東南アジアを回ることになったのだ。

旅行を通じて、ジェスチャーでの意思疎通には慣れてしまった。テレパシーできるかもとか思ったりした。表情とアイコンタクトに意識を集中し、実際に何を言っているのかを知りたがったりもしたが、分からないのに精神的優位に立っていることもしばしばだったのは、曖昧であるがゆえに開き直れていたのかなと。制約なんて糞食らえ、文化的な意味での拘束衣を自由に着脱できるようになったのだ。

Part 2

長い期間、外国に住むことは、自由な旅行者的な感覚とは全く違った。日本の高校で英語を教えていたときにそれを経験するのだが、来日前、私は1語の日本語も話したことがなく、日本人は英語くらい話すさ~とか思い込んでいた。話せなければ仕込めばいいし、てか私は日本語なんて学びたかないんだよと目論んだ。涼しいのにじめじめした7月の来日直後、日本人、誰も英語を話しやしないから、自分が学ばないとヤバいじゃん、とは頭では分かったのだが、心がそれを拒んだ。日本文化に溶け込むか、よその国の人としての快適さに甘んじるか。というか日本語難し過ぎんだろとか思ってた。

が、私の超片言の日本語は、人と親しくする障壁にはならなかったんだよ驚いたことに。教える人はオール日本語なのに、ある程度まで茶道とか生け花とかやってみた。テレビにもハマってみた。何言ってるかは分かんなかったけど、昼ドラ、時代劇、相撲、アニメ、CMとかすっかり夢中になってしまった。

Part 3

日本の学校では週6日を一日中働いて、7日目には誰かからは誘われた。何言ってるかはよく分からなかったがジェスチャーだのイントネーションだの間だのはだいたい分かるようになっていたと思う。コミュニケーションがうまくいくようになって、言外の雰囲気というか情緒的なところ、必要以上の礼儀正しさとかそんなのが見えてくるようになった。その「いくらか」分かるというのが心の支えになった。

来日から3ヶ月したある日のこと、不意に日本語が自分のものになっているのに気付いた。その日、通勤で路面電車に乗っていたところ、おばあさんが空いてんのに私の隣に座ってきやがった。日本語で話しかけてくるんで「ゼンゼンワカリマセ~ン」とかいって話を遮ってたんだけど、そのばあさん全然話を辞めないでやんの。しようがないから適当に微笑んでみたり相槌打ったりしてたんだけど、まあ降りるところで降りてったんでホッとした。で、一人になって考えてみたら、そのばあさんの言ったこと、だいたい分かってたし、そもそも会話を日本語でやってたんだよね。うわこれテンション上がるわ、ってことでその瞬間から日本語と日本文化に溶けこんじゃってもいいかもと、もう抗う気はなくなってた。

Part 4

私の言語能力は、まず聞いたことを真似するところから始まっている。このやり方では、礼儀正しさとか堅苦しさとかの使い方が鸚鵡返しになるせいでいつでも適切だとは限らなかった。また、友人や同僚から「男」言葉やローカルな言葉を知ったが、それらはTPOを弁えねばならなかった。

皮肉なことだが、丁寧さ・堅苦しさは年齢、階層、社会的地位、性別に左右されると知ってから色々とヤバいと感じた。からかわれたくないし、アホなアメリカ人だとか言われたくなかった。溶け込みたかった私は、上品な話し方を通じて、日本バージョンの人格を自力で創り出したのである。

そうした経緯が、言語習得とは単語や文法を知るだけではない、それ以上の何かだということを私に気付かせてくれた。日本の社会では、自らの役割に従っての行動を余儀なくされたが、そうした状況をこれまでの自分の積み上げてきたこと(経験とか考え方とか)と完全に分離するのは無理そうだった。というか、自分の仕事終わったらすぐ帰宅するもんでしょ普通は。けれども、新しい環境に順応すべく郷に入らば郷に従わなければならなかったのだ。

別の言語を学べば視野は広がると人は言う。そりゃまあ確かにそうだろうけれども、それが全てってことでもない。自分自身とは何なのかを深く問い詰めてもくるのである。った。